戦後70年というが、私にとって一番近い戦争はイラク戦争である。
911を経験して、アメリカはおかしくなってしまった。いたずらに恐怖心にかられ、そして猜疑心にさいなまれ、アフガニスタン空爆に突き進む。
そして、なんの正当性もないイラク戦争へと舞台の中心が移っていく。
ビンラディンは死んだ。
でも、それで何が変わったのだろうか?かの地は今はISという国家を主張する武装グループが幅をきかせている。
一連の軍事作戦で、アメリカ軍側にも、そしてもちろんイスラム側にも多大な被害が出た。
その中で、恐ろしいのは、アメリカの知人が言う「私たちは死者を乗り越えて生きていかなければいけない」
という言葉だ。
この言葉には、生きることの利己的な側面が集約されていると私は見る。結局、歴史は生き残った者によって正当化されるものなのだろうか。
翻って、それは我々にも言える。我々は70年前、とてつもない代償を払って戦争を終えた。
我々は、戦争に負けたのであるから現在の歴史は、われわれに対する非難を強調するようにできているのかも知れない。そして、あの戦争に突き進む、不可避な理由があったのかもしれない。
しかし、である。そのことを私たちが自ら語ることには私たちが自ら許しを与えることだと思う。我々の歴史を正当化する言説には毅然として立ち向かわなければいけない。
もちろん、他国が、過去の歴史に十分向かい合ったかというと、戦勝国に関していうとそれは言えないだろう。
そして敗北していても、アメリカがベトナム戦争の反省を徹底的にしたとは到底思えない。
評価すべき国があるとするならば、それはドイツである。かの国は、極右の台頭を許さないよう、少なくとも日本よりは誠実に反省している。
日本に課されている人類史的に独自な意味があるとするならばそれは先の戦争から学んだ教訓を世界に広めることだと考えている。
さりとて、一部の保守勢力のいうほどではないが、中国の台頭はまぎれもない事実であるし、もしも政治を力の原理で考えるのであれば、より強固な武装が必要であるという考えも理解できる。
しかし、それが、日本の取るべき、そして取りうるベストの道かというと、それは違う。
人間の世界は、人間の問題以外にも、地球からの脅威にも立ち向かわないといけない段階に来ている。
我々を滅ぼすのは、他国の人間でなく、地球そのものかもしれない。
何が、大切か。
アメリカの軍事費削減のため、そして国際社会に日本も他国と同じように貢献していると見せるため、日本の法律を変えることには賛成できない。
まず、中国とは、経済的にお互いなしでは存続的できないという共通認識をもち、より強固な経済政策を打ち出すのはどうだろうか。
国家としての力の上下関係は、生命を上位に考えるならば、それほど大したことのない問題だと思う。
長年、日本列島は大陸に対して隷属的な関係に甘んじてきたし、それは今のアメリカに対してもそうだ。
大切なのはそのことを恥とせず、むしろ、日本の独自性として誇りに思えばよい。それよりも、その独自性ゆえにできること、それはソフトパワーでもって、大国がなしえないことをする。
それは、日本文化を出発点とした環境政策であったり、平和主義思想の啓蒙だったりする。
私たちは多かれ少なかれ身近な人々をなくしてきたし、そもそも国民すべて命をなきものとする思想に染められていたのである。私たちは70年前、ゼロから出発したのである。
今ある命が、もともとないものだとするならば、日本がどちらの道に進むにせよ、信じる道を進むことは難しいことではない。どちらにせよ、リスクはある。そして当事者にとり、それは一度きりのリスクである。
私は、日本が現状から、普通の国家になるよりも、特殊性を貫く方が、日本のためにも、世界平和のためにもより意義があると思う。
そちらの方向で腹をくくることに決めた。さよなら終戦記念日。